中越沖地震から6年「勝利の喜び両親に」・・・柏崎常盤・山田隼己選手

3対3の同点で迎えた4回裏に、満塁のチャンスで打席が回ってきた。9番の山田が打席に立つと柏崎常盤のベンチが盛り上がる。「隼己、笑え!」…その言葉に打席の山田は、まだあどけなさの残る笑顔を見せた。

悪夢のようなあの日から、ちょうど6年目の日だった。

柏崎常盤・山田隼己選手(右)

15人の犠牲者を出した中越沖地震。山田は小学6年生だった。地震の揺れで自宅は倒壊。「立っていられなくて、声も出ないほど泣いた」と話す。仮設住宅で2年もの間、不自由な時間を過ごした。山田を最初に取材したのはこの頃。「地震に負けずに野球を頑張りたい」とあどけない表情で話す小学生だった。

巨人好きだった父親の影響で、当時の遊撃手の鴻野淳基(こうのじゅんき)さんにあやかって、隼己(じゅんき)と名付けられた。幼い頃から野球が大好きで、体は小さかったが、プロ野球選手を夢見て、地元のチームで一生懸命練習をする子どもだった。

しかし、地震で自宅や野球道具が被害を受けた。野球を続けるのを諦めようと思った時期もあった。だが両親が山田を応援した。中学で3年間、高校で3年間、野球を続けることができたのは両親のおかげだ。最後の夏、背番号4を付けることができた。

初戦となった16日の小千谷戦。柏崎から球場へと向かうバスの中で、山田は思った。
「きょうであの地震から6年・・・よく野球をやってくることができたなと。いろんなものが壊れたりした中で、よくここまでやってくることができたなと思いました」

小山建史監督は山田を「ムードを変えられるバッター」と評する。「1年春のデビュー戦に代打で出したら、たまたまポコンとヒットを打って、そこから流れが変わって逆転勝ちできた。彼が出塁するとチームのムードが変わる」とその役割に期待する。

試合は小千谷に1点を先制されたものの、柏崎常盤が3点を奪い逆転。その後、3対3の同点に追い付かれた後の4回裏、満塁のチャンスで山田に打席が回ってきた。

「いつも打席に立つとベンチでみんなが笑っていてくれて、ここで出たら流れが変わるかもしれないと思っていました」

ファールで粘り、ボールを見極め、押し出し四球を選んだ。山田の出塁にベンチ内はどっと沸いた。山田は一塁ベース上で笑顔を見せた。そこから四球と連打でこの回に6得点を挙げ、試合の流れを決定付けた。5回にはヒットを放ち、セカンドの守備でも2度の守備機会を無難にこなした。12対8で初戦となる2回戦を突破した。

仲間と勝利を喜ぶ山田隼己選手(右から5人目)

「最初に点を入れられた時は、飲み込まれそうになったんですけど、点を入れて逆転して、最後まで粘れて良かったです。勝った瞬間、最後は泣きそうでした。両親にこの勝利の喜びを伝えたいです」

地震から6年。悪夢だった日を、勝利で飾ることができた。小学6年生だった山田は、今では身長が175センチと立派な高校球児に成長した。体だけではない。心も大きく成長していた。3回戦は昨夏優勝の新潟明訓と対戦する。
「できる限りのプレーをして、悔いのないように戦いたい」

(取材・撮影・文/岡田浩人)


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