【球春到来インタビュー】日本文理OBの栗山賢 「153キロ出しNPBへ」

三条市出身で日本文理高校時代に3度の甲子園出場(06年春夏、07年春)を果たした栗山賢投手(26・福島ホープス所属)が28日、新潟市のハードオフ・エコスタジアムでおこなわれたルートインBCリーグのオープン戦で、久々に地元・新潟のマウンドに上がった。「3月上旬に腰を痛め、あまり投げ込みができていない」と不安を口にしていたが、今季初めて登板した実戦マウンドで1回を投げ、被安打1、奪三振1、無失点と上々の出来だった。試合後、栗山投手に話を聞いた。

新潟とのオープン戦に登板した栗山賢投手

― 久々の実戦マウンドは?
「すごく緊張したが、全球種でストライクを取ることができるように投げた。直球は少し浮いていたが打者も振ってきたので、いいボールが行っている手応えがあった。(球場表示は139キロだったが)指先のかかりもよかった」
― BCリーグで6年目のシーズン(群馬4年、福島2年目)を迎える
「一時期は野球をやめようとも思ったが、年齢を重ねるにつれて段々よくなっている。衰えたらやめようと思っていたが、衰えを感じないのでやめることができない(笑)。毎年、自分が成長しているのがわかる」

「年々成長している」と語る栗山投手

― 去年は直球の最速が149キロを計測した
「自己最速だった。自分なりに肉体改造のやり方をインターネットなどで調べて、野球以外に他のアスリートのトレーニングに興味を持った。ハンマー投げの室伏広治選手はパワーもあるが足も速いし、ボールを投げても速い。室伏選手を参考に、筋肉が大きいだけでなく、その筋肉をいかにうまく使うことができるかを考えながらトレーニングをした結果が149キロだった。野球の動きにつながるように考えながら、筋肉をつけながら、なおかつ速く動くことができるアメフトの練習などを自分で調べてやってきた」
― 高校時代は決して練習好きではなかった印象があるが
「今は練習が大好き(笑)。まだまだやり足りない。グローブを持っている時間は少ないが、体を鍛えるトレーニングはしっかりやっている。(社会人時代に右肩を痛めたこともあったが)ケガをしていた頃はグラウンドにも行きたくなかった。今は練習大好きで、自分を鍛えている感覚が好き」
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日本文理高校時代の栗山投手

― 高校時代はしなやかなイメージだった
「線が細かった。あのしなやかさが今は欲しい。今のパワーと高校時代のしなやかさを組み合わせたら究極のものになるのかなと思う。まだ満足はしていない」
― 一昨年に結婚、長男の凛太郎くん(1歳)が誕生した
「子どもや家族ができてやる気が増した。すごく励みになっている」
― 今季の目標は
「数字の目標は153キロを出して、NPBに行きたい。そこだけ。年齢がネック(今年9月で27歳)だが、1歳上の大竹(秀義)さんが去年巨人(育成)に行った。去年は直球で空振りが取れたり、ファウルが取れた。変化球で空振りを取ることはできるが、かわして空振りを取って抑えてもNPBへのアピールにならない。直球で抑えたい」

1回を無失点に抑え笑顔でナインに迎えられる栗山賢投手(中央)

<関連記事> 2013年4月掲載
「新潟の高校野球史を変えた男の開幕…群馬・栗山賢投手」
http://www.niigatayakyu.com/archives/360

(取材・撮影・文/岡田浩人)


「タカマサ」と「ケント」の18.44メートル ライバル対決の舞台は神宮へ

この2人の対決には、2人にしか分からない“会話”があった。

十日町市出身で、日本文理高校を卒業した池田貴将(18)。
同じく十日町市出身で、新潟明訓高校を卒業した村山賢人(18)。
小学2年生で出会ってから10年の月日が経っていた。
一方は、日本文理のキャプテンで4番打者。
一方は、新潟明訓のエース。
『幼なじみ』であり、まぎれもない『ライバル』だった2人。

6打数1安打、1死球、1三振。
高校3年間で2人が残した直接対決の成績である。

この春、2人は高校生活を終えた。
そして大学生として新たなスタートを切る。
ライバルの物語は今、第2章が始まろうとしている。新潟明訓を卒業した村山賢人投手(左)と日本文理を卒業した池田貴将選手(右)

2人が出会ったのは十日町市立西小学校2年生の時。別々の少年野球チームで野球を始め、互いにその力を認めていた。そんな2人が5年生の時にチームの合併でチームメイトになった。

池田 「ケントは2年生の時から試合に出ていて本当にうまかった。一緒のチームになれると聞いて、これで優勝できると思いました」
村山 「タカマサはキャプテンとしてチームまとめる力があった。チームを引っ張っていく力があると思っていました」

6年の時には村山が3番打者、池田がキャプテンで4番打者に。2人でチームを引っ張り、十日町市内の大会で優勝。県大会でベスト16に進出した。2人は互いの家を行き来するほど仲良しだった。

そんな2人の関係が少しずつ変化していったのは十日町南中学校時代。2人はピッチャーとしてエースの座を争った。

村山 「エースナンバーの1番はいつもタカマサだった。自分はセンターの8番。どうしてだろう、なんで1番をもらえないんだろうと思っていた」
池田 「中学ではケントのことはライバルだと思っていた。負けたくないと思っていました」

当時、十日町南中学校で2人を指導していた松井晃一監督は強烈なライバル心を燃やしていた2人の様子をこう振り返った。
「池田は闘志を体の全面に出す負けず嫌い。村山は内に秘めた負けず嫌い。お互いピッチャーだったのですが、ある時ブルペンで互いに違うキャッチャーを指名して投げていて、僕が怒ったことがあったんです。あの頃から意識し合っていたんでしょうね」

池田、村山のダブルエースを擁する十日町南中学校は県大会でベスト16に進出。その時にエースナンバーを背負っていたのは池田だった。ある時、池田が高校進学について口にした。
「俺、文理(日本文理)に行くから」
その瞬間、村山は心に決めた。
「俺は明訓(新潟明訓)に行く」

村山は進路決定で日本文理のライバル校・新潟明訓を選択した。その時の自分の心境をこう振り返った。
村山 「どこかの段階でタカマサとは戦わなければいけないと思いました」

日本文理の中心選手に成長していった池田貴将選手


新潟明訓で1年秋からエースとしてマウンドに立ち続けてきた村山賢人投手

高校に入学し、2人は十日町市から100キロ余り離れた新潟市にあるそれぞれの学校の寮で暮らし始める。慣れない新潟市での寮生活。当初は互いにLINEで連絡を取り合い、励まし合っていた。

そんな2人の関係が変わったのは高校1年生の秋。村山が新潟明訓の投手陣の中心として頭角を現し始めた頃だった。村山は県大会4回戦・村上桜ヶ丘戦で1失点の完投勝利を収めると、続く北越戦では3安打完封。期待の1年生投手として新聞に大きく取り上げられた。

池田 「悔しかった。北越戦で投げて新聞に載った。それを見て『うわー』と思いました」

池田も1年生ながらベンチ入りし、サードのレギュラーを奪おうとしていた。日本文理は県大会では優勝し、新潟明訓とともに北信越大会に駒を進めた。しかし北信越大会1回戦で松商学園(長野)に0対15で5回コールド負けを喫してしまう。

一方、北信越大会1回戦で完投勝ち、準々決勝でも先発し勝利に貢献した村山は選抜甲子園出場まであと1勝と王手をかけた。準決勝の春江工(福井)戦でも先発した村山は3対1とリードしながら、疲れの見えた8回につかまってしまう。結局、3対5で逆転負けし、目の前にあった甲子園切符を手にできなかった。

ただ、1年生ながら2人はチームの中心選手になろうとしていた。
2人が互いに連絡を取り合うのをやめたのもこの頃だった。
互いに相手の姿を思い浮かべながら練習を重ねていた。

池田 「バッティングの調子が悪い時は、先輩から『そんなんじゃ村山を打てないぞ』と言われていました」
村山 「自分たちより部員が多い文理でタカマサが試合に出ているのを新聞で見て刺激を受けました。名前が自然に目に入って、『ああ打っているな』と思っていました」

2年夏、村山は県大会準々決勝で村上桜ヶ丘に敗れた。一方、池田は決勝で村上桜ヶ丘を破り甲子園出場を決めた。甲子園の1回戦・大阪桐蔭戦では敗れたものの、池田はタイムリーヒットを放つ活躍を見せた。

村山 「そう簡単に甲子園に行けるものじゃない。その中で甲子園に行ったタカマサは凄いと思いました。同時に気持ちがへこんで数日間引きずりました。次は負けないと思って、夏場は厳しい練習を課しました」

2年秋、新チームが発足すると池田は日本文理のキャプテンに、村山は新潟明訓のエースに、それぞれがチームの大黒柱となっていた。両チームは秋の県大会で大本命の前評判通りに勝ち進む。そして決勝で2人は初めてとなる“直接対決”を迎えた。


新潟明訓のエースに成長した村山賢人投手(2013年9月・県大会決勝)

池田と村山。
ライバル同士の初対決は3回表、1死走者なしからだった。
マウンドからホームベースまでの距離は18.44メートル。
その距離を挟んで両雄がにらみ合った。

池田 「中学生の時とは比べ物にならないくらい真っ直ぐも速くてコントロールもよかった。これは凄くいいピッチャーになったなと打席に立って実感しました」
村山 「タカマサのスイングスピードが全然違った。第一打席でレフト前にヒットを打たれて・・・全力で投げた真っ直ぐで140キロ近く出ていたと思います。正直怖かった。小学校の時からずっと一緒にやってきて、タカマサはここぞの場面で打っていた」

続く第2打席は空振りの三振。第3打席はサードへのファールフライ。池田・村山の直接対決は3打数1安打1三振だった。試合は逆転に次ぐ逆転のシーソーゲームで、終盤8回に星兼太の長打で再逆転した日本文理が4対3で新潟明訓をくだした。

村山 「あの試合はめっちゃ憶えています。8回に星くんに逆転打を打たれて、カーッとなって頭が真っ白になりました」
池田 「明訓は強かった。ケントがいいので点を取れなかった。力の差はないと思いました」


新潟明訓をくだし秋の県大会で優勝を決めた日本文理・池田貴将選手(左端)

その後、日本文理は北信越大会も制し、選抜甲子園出場を決める。選抜では1回戦で敗れたものの、秋の神宮大会で準優勝した力は全国屈指のものとなっていた。

村山 「冬場は短距離の走り込みを繰り返して、変化球の精度を上げていくのを課題にしました。タカマサはもっと上へ上へと目指してやっているはずと思って、負けないよう自分を追い込みました」

そして、2度目の直接対決の機会がやってくる。
春の県大会決勝。第1シードの日本文理と第2シードの新潟明訓が順当に勝ち上がった。
2回裏、4番の池田が打席に入る。
その瞬間、村山の目が険しさを増した。

池田 「3番の小太刀(緒飛)の時と顔つきが違った」
村山 「文理は池田のチーム。キャプテンで4番で・・・僕にとっては対文理イコール対池田でした」




「池田を抑えるにはインコースを突くしかない」
キャッチャーの水澤圭太と事前に打ち合わせをしていた村山は、1ボール2ストライクと追い込んだ4球目。果敢に内角攻めを敢行した。
その瞬間、池田の左腕にボールが当たった。
デッドボール。

さっと一塁へ向かい走り出した池田。
帽子を取った村山。
この後、日本文理の1年生・荒木陵太が長打を放ち先制。試合は3対0で秋に続き日本文理が勝利し優勝した。
一方で、この試合で村山は池田を3打数無安打に抑えた。

村山 「自分の投球ができた手応えはありました。夏までにさらに精度を上げていければと」

池田 「勝つには勝ったが、秋までは外のストレートとスライダーの出し入れで勝負してきていて、それなら何とか対応できるかなと思っていたが、あそこでインコース見せられてこれは大変だなと。甘い球はこないし、夏までにインコース打てるようにしなければと思いました」

言葉を交わすことはなかった。
しかし18.44メートルを隔てて、2人は“会話”をしていた。
ただ互いを意識し、負けたくない、負けられないと切磋琢磨して2人は成長していった。
十日町市の小学校で出会った2人は、新潟県を代表する4番打者とエースに成長していた。


18.44メートルの距離を隔て対峙した2人(去年5月12日の県大会決勝)

3年夏の新潟大会。
3度目の2人の対決の機会は、訪れなかった。

新潟明訓は準決勝で関根学園に敗れ、決勝進出を逃した。
試合後、真っ赤な目でロッカールームから出てきた村山は、消え入りそうな声でこう言った。
「タカマサに申し訳ない、と伝えてください」

この言葉を聞いた池田は、しばらく黙ったままだった。

その後、日本文理は新潟大会で優勝。甲子園でも勝ち進み、ベスト4に進出した。1回戦の大分の快速右腕・佐野皓大に始まり、全国の好投手を打ち崩した打撃は見る者に鮮烈な印象を与えた。池田は2回戦で東邦・藤嶋健人のインコースの直球をレフト前に運ぶ逆転打を放つ活躍をみせた。春の県大会決勝以降、「村山対策」としてインコース克服に取り組んだ成果だった。

池田 「(大井道夫)監督がずっと『村山を打たなければ勝てない』と速球対策を練習してきた。その結果、甲子園でいい投手と当たっても動じなかった。ケントがいなかったら自分もここまで成長できていなかったと思います」

甲子園から帰って来た池田は久しぶりに村山と直接話しをした。ライバルが幼なじみに戻るまで、実に2年の歳月が流れていた。

「ケントがいなかったらここまで成長できていなかった」と語る池田貴将選手

最終的にプロでも対戦できれば嬉しい」と話す村山賢人投手

2人はこの春、同じ首都圏の大学に進学する。池田は東洋大学、村山は国学院大学。ともに「戦国」と言われる東都大学野球連盟に所属するライバル校である。現在は国学院大は1部、東洋大は2部でリーグ戦を戦っている。

池田 「東洋は2部なので、まずは1部に昇格して神宮球場で試合をしたい。試合に出られるように頑張って、チームの力になって早く1部昇格の力になりたい」
村山 「最初の目標はローテーションに入ること。じっくりと体を鍛えて、チームの勝利に貢献できるように頑張りたい」

2人の当面の目標はベンチ入り、そしてレギュラーの座を勝ち取ること・・・十日町から新潟市へとやって来た3年前と同じである。その先には、神宮球場に舞台を替えて3度目となる直接対決が待ち望まれる。そして、互いに最終目標は「プロ」と言い切る。

池田 「最終目標はプロ。まずは高校で達成できなかった日本一を大学で達成できるように頑張りたい。ケントは一生のライバル。対戦したら結果を残せるように頑張りたい」
村山 「小学校からずっと一緒で、それだけでも凄いことだなと思う。プロに入るだけでなく活躍することが目標。お互いに努力して最終的にプロでも対戦できれば嬉しい」

18.44メートルを隔てたライバルの物語の舞台は、この春から神宮球場へと場所を変える。そしてその先も見据えた2人の切磋琢磨は、もう始まっている。

(取材・撮影・文/岡田浩人 取材協力/ハードオフ・エコスタジアム新潟)


【女子野球】益田詩歩さんが球団代表に就任 新潟県初の女子プロ選手

長岡市出身で新潟県初の女子プロ野球選手として活躍した益田詩歩さん(26)が日本女子プロ野球機構の東北レイア(本拠地・宮城県仙台市)の球団代表に就任した。リーグに所属する4球団のうち東北レイアは今季はリーグ戦に参戦せず、若手の育成に力を入れながら地域に根差した女子プロ野球の底辺拡大に力を注ぐチームとなる。2010年から4年間女子プロ選手としてリーグを引っ張り、2013年シーズンで現役を引退した益田さん。フロントの立場から「女子プロ野球の環境を整え、新しいスポーツ文化を生み出したい。東北から女子野球熱の高い新潟をバックアップしたい」と意気込んでいる。

東北レイアの球団代表に就任した益田詩歩さん

Q2013年に現役を辞めた理由は?
益田「4年間プロ選手をやらせていただき、プロ野球選手という夢が叶って嬉しかった。その反面、お客さんが減っていって女子プロ野球がこのままでは未来がないのでは、というフロント的な考えをずっと思っていた。機構の会議に出た時に、スタッフの中にプロ選手がいた方がいいのではないかと思った。自分の仲間が野球をする環境、女子プロ野球を運営する環境、お客さんが女子プロ野球を楽しめる環境を変えていきたいと思った。女子プロ野球には凄く可能性を感じていて、新しいスポーツ文化を生み出すことができると思った」
Q女子プロ野球の魅力をどう感じている?
益田「女子プロ野球選手は野球が大好きで、野球ができる環境を求めてプロになっている。お金のために野球をやっていない。高校野球に近い。全力プレーで、かつ選手が楽しんでやっていることがお客さんの心を打つのではないか。選手時代から女子プロ野球はお客さんが心から笑顔になってくれる感じを受けてきた。東北で活動することでいろいろな人に元気を与えることができるのでは」
Q引退後の2014年はどうしていた?
「埼玉の2チームの試合運営に関わっていた。お客さんに対する球場内の演出など。そこでは1つの試合に対してこれだけの人、スタッフが動いているのかと実感した。選手時代は全く見えていなかった。こういうことも元選手だから現役選手に伝えられる。逆に選手の気持ちもフロントに伝えられる」

現役時代の益田選手(2013年6月) 巧打の外野手として活躍した

Q新たに東北を拠点とする球団の代表に就任した
「今季は京都フローラ、兵庫ディオーネ、埼玉アストライアの3チームが前後期の公式戦を戦う。東北レイアはしっかり次世代の選手を育成する。今まではしっかりと育成ができていなかったという反省がある。1年目は若手や高卒新入団選手など12人の選手が所属する。選手の力を伸ばし、トップ3チームに選手を供給する。東北レイアは国内の女子チームとの実戦や男子とも練習試合などをやっていきたいと考えている。2017年にはこのチームで公式戦に参戦することを決めている」
Q今後、地元・新潟との関わりは?
「新潟には大きな可能性を感じている。頓所理加さん(BBガールズ普及委員会代表)の活動をはじめ女子野球が盛ん。やっと頓所さんのサポートを全力でできる。私が15歳で長岡を出た時にはなかった女子野球熱を頓所さんが作ってくれた。これを全力でバックアップしたい。仙台と新潟は近い。新潟の女子野球熱をもっともっと熱くしたい。新潟を女子のレベルの高い県にできたらと思う。ぜひ益田を呼んでほしい」
Q改めて目標は
「女子プロ野球選手になった時、オーストラリアで岡島秀樹さんに直談判して一緒にトレーニングをさせてもらったことがある。行動力には自信がある。チャンスは誰にでもある。そういうチャンスはどんどん掴んでいってほしいと若い選手やスタッフに伝えたい。目先だけではなく先を見た時の競技レベルを上げたい。才能ある選手が入ってくるので開花させてあげたい。日本で子どもたちがもっと野球ができるような環境を作りたい。このチームならできる。東北各地で子どもたちと野球を楽しめる環境を作りたい」

<参考>
益田詩歩さんの女子プロ野球選手として歩みは、2013年3月11日の当サイト記事に詳しく掲載してあります。参考にしてください。
http://www.niigatayakyu.com/archives/117


◎お知らせ◎
県内の野球好きの小学生女子のためのイベント「BBガールズ ウィンターフェスタ2015」(主催・BBガールズ普及委員会)が2月15日(日)午前9時30分から12時30分まで、出雲崎町民体育館でおこなわれます。新潟県初の女子プロ野球選手として活躍した益田詩歩さんの野球教室もおこなわれます。参加申し込みは以下のポスターに記された方法で事務局までお申し込みください。
(注意:開始時刻が『PM9:30』と記されていますが、『AM9:30』の間違いです)


(取材・撮影・文/岡田浩人)


【インタビュー】怪物・飯塚を“覚醒”させた本間メモ DeNA入団の飯塚悟史投手が本間忠氏と対談

昨夏甲子園でベスト4入りした日本文理高校のエースで、DeNAに入団が決まった飯塚悟史投手(18)。その成長を陰で支えたのが同校OBで元ヤクルト投手の本間忠氏(37)である。高校入学時から「怪物」と言われながらも一時は伸び悩みを見せた飯塚。その転機は去年1月に学生野球資格を回復した本間氏との出会いだった。前年秋の神宮大会決勝で8対0とリードしながらも逆転負けを喫した飯塚。「勝てる投手になりたい」・・・そう話す飯塚に、本間氏が渡したのは1枚のメモだった。今明かされる飯塚の苦悩と、本間氏の助言。甲子園ベスト4進出までの舞台裏と今後について、2人が語った。

DeNAに入団が決まった飯塚悟史投手(左)と元ヤクルト投手の本間忠氏

一昨年、2013年11月20日、東京・神宮球場でおこなわれた明治神宮大会高校の部・決勝。日本文理は飯塚の2打席連続本塁打を含む5本塁打を放ち、沖縄尚学を相手に8対0と大量リードをしていた。新潟県勢初の全国制覇まであとアウトは9つまで迫っていた。しかしエース飯塚が捕まった。7回に3失点、8回には6失点・・・大逆転負けで敗れ、準優勝に終わった。その後、春のセンバツ甲子園へ向けた野球雑誌では神宮大会で3本塁打を放った「打者・飯塚」が注目されていた。2人が出会ったのはその頃だった。

飯塚「自分自身は『打者・飯塚』よりも『投手・飯塚』でやりたかった。正直、『打者・飯塚』としての評価は面白くなかった。その頃、本間さんから教えてもらえることになった」
本間「(学生野球資格を回復して)教え始めたのは去年2月。その頃は『投手・飯塚』よりも『打者・飯塚』の方が大きく取り上げられていた。その評価が僕は嫌だった。投手としての評価を上げたかった。そのためには何をしなければいけないかという話をした。130キロのフォームで135キロを放りなさい、そうすれば打者は詰まる。スピードが上がってくれば133キロのフォームで140キロが放ることができればいい。そこからスタートした。そのためには軸足とテークバック。大きく放って速い球が来る投手はいっぱいいるけど、小さく放って速い球が来る投手はなかなかいない。だからテークバックは大きくなくていい、と言いました。そのフォームで選抜に行こうと話した」

去年2月、学生野球資格を回復して初めて飯塚投手を指導した本間氏(左)

本間「一番最初に飯塚を目にしたのは中学3年生の時。Kボール選抜セレクションでキャッチボールを見たときに『いい投手がいるな』と思った。リリースが強く、ボールをパチンと弾いていた。中学生でもこういうふうに投げる子がいるんだと思った。身長が高く、腕も長かったのでボールは速くなるなと。その後、文理に入学して、ああ、この子かと思った」
飯塚「その時は(見られているとは)全然わからなかった」
本間「プロアマ規定があったので文理に入った後も会話ができなかったけれど、注目をして見ていた。1年生の夏はいいフォームで投げていたが、1年秋に少しフォームが変わってきた。力任せのフォームになってきたと思った」
飯塚「多分そうだと思う」
本間「飯塚のようにボールを弾くことができる投手は軟式から硬式になった時にスピードが上がる。ボールもつぶれないのでバチンと弾くことができるから。それが硬式ボールの重さを知ると段々手が体よりも遠くから出てくるようになる。ボールが重くて遠心力がかかってしまう。そうすると徐々に重さに負けて手首が寝始める。その道を通る選手と通らない選手がいるが、飯塚は腕が長かったのでその道を通ってしまった。シニア上がりのピッチャーが高校でフォームを崩すことはそんなにない。でも軟式の子で中学から高校に上がると結果が出ない子がいる。体ができ上がる前にボールの重さを知ってしまい、そのままフォームが(力任せに)流れてしまった」

12年秋の飯塚投手(1年) 本間氏は「この頃から力任せになっていた」と指摘する

1年生の秋(2012年)、飯塚は県大会で優勝。しかし背番号1を背負いセンバツ出場をかけて臨んだ北信越大会では1回戦で松商学園(長野)を相手に0対15で5回コールド負け。この頃の飯塚は投手として球速を出すことにこだわっていた。

飯塚「1年秋に県大会で優勝して、自分の中ではセンバツ甲子園に行けるんだろうなと思っていた。それが北信越の1回戦でああいう負け方をして、やっと『高校野球』を知った。それまでは中学の延長線でやっていた。その時はまだ球速を出したかった。143キロが1年秋に出たので145、146を目指した。その時はスピードにこだわっていた」
本間「それをやってるうちは直らないだろうなと思っていた。(2年夏に甲子園に行って、2年秋に北信越大会で優勝した)その時はまだ資格を持っていなかったので直接は直せなかった。(飯塚のフォームを見て)うーん・・・(苦い表情)と思っていた。ちょうどその頃に資格回復の話があった。中学生の時に初めて見て『いい投手になるんだろうな』と思って見ていた選手が打者で注目されていた。自分の見る目が間違っているんじゃないかということになる。それは面白くなかった。だから絶対に『投手』として直そうと思っていた」
飯塚「投手として甲子園のマウンドで投げたいと思って文理に入ってきた。それは絶対曲げたくなかった」

去年2月から飯塚の指導を始めた本間氏は最初に飯塚にこう尋ねた。
「どんな投手になりたいの?」
秋の神宮大会決勝で逆転負けを喫していた飯塚は、即答した。
「勝てる投手になりたいです」
本間氏はすぐさま答えた。
「じゃあスピードへのこだわりは捨てなさい」
そして、飯塚に1枚のA4のメモを渡した。そこにはこう書かれていた。
『負けない投手の条件』
・・・それが投手・飯塚を“覚醒”させた『本間メモ』だった。

本間氏が飯塚投手に渡した『本間メモ』 プロで学んだポイントが書き記されていた

フォーム固めと並行して、本間氏は自らが考える「負けない投手の条件」を飯塚に教えた。それは「牽制」「クイック」「クセ」の3つだった。本間氏はいかに走者を出さないか、ではなく、走者を出した後、どうやって進塁させないか、本塁を踏ませないか=いかにムダな失点を減らすか、を重要視した。牽制で走者を塁にくぎ付けにすること、二盗を防ぐためのクイックモーションの重要性、そしてフォームにクセが出ないようにすること・・・スピードボールを投げ込むことばかりを考えていた飯塚にとっては、これら1つ1つの教えが新鮮で、目から鱗が落ちるものだった。

本間「センバツ前はいわゆる『ピッチング』を教えた。配球をうるさく言った」
飯塚「本間さんからは『ランプの付け方』・・・カウントの取り方を言われた」
本間「自分も高校生の時はそう思っていたが、『決め球』は一番最後に投げるもんだと思っていた。飯塚自身も思っていた。でも違うよ、と。打ち取った球が『決め球』になればいいのだから、先に打者に嫌だと思わせた方が勝ち。だから『最初にフォークを放れ』と言った。フォークがあると思えばみんなが早打ちするから球数は減る。ベストはカウント1ボール1ストライクからの3球目を打たせること。そうすれば1イニング10球もいかない。その代わり、ここぞという時には球数は使っていい、と教えた」
飯塚「常に自分と同じ目線でやってもらえたのがやりやすかった。本間さんの教えを実行するたびに自分の中で面白いように成長ができている実感があった。この人について行こうと思った」
本間「自分が高校生の時にはそういうアドバイスをしてくれる人はいなかった。自分自身はNPBでの経験が大きかった。自分は投手だったが1球団に約30人の投手がいる中で、30人全員が同じ動きはしない。それぞれが違う道を行って1軍の12~13人の枠を取る。もし30人が同じ一本道を行くなら、力のない人間が必ず負ける。力のない人間が力のある人間に勝とうと思ったら、違う方法で上り詰めなきゃ駄目。ただ飯塚の場合は馬力があると思ったのでテークバックは小さくても球速は出るよ、そこから肉付けしていこうと言った。上り詰めれば最終的にはプロに行けると思った。最初に『勝ちたい』と言ったので、そこをスタートラインにして、じゃあ勝つためにはどうしたらいいかと考えて直した。150キロのボールはいらない・・・それは本人も納得して消した。150キロをアウトロー(外角低め)に投げるなんてプロでもそう簡単にいない。でも137、138キロをアウトローに放った方が勝てるんだ、と言った」

昨春のセンバツ甲子園初戦で飯塚は豊川(愛知)を相手に好投。特に外角の制球と新球・フォークボールを駆使した頭脳的な投球が目を引いた。試合は延長13回の激闘の末、3対4でサヨナラ負けを喫したが、この試合で『投手・飯塚』としての評価は急上昇した。

飯塚「センバツでストライクを取る感覚がやっと掴めた。自分の中では『投手としてやれる』と思えた甲子園だった。やっと考える投球ができた」
本間「勝ちたかったが、僕の中で飯塚の投球はOKだった。甲子園という試合でしか覚えられない感覚があるから、とりあえずフォークを放ってこい、と言った。甲子園でフォークで空振りが取れることをわかってくれたのは自信になったと思う。センバツまでいろいろなことを吸収をしてくれた。延長戦で母校には勝って欲しかったが、飯塚の成長段階としては合格だった」

本間氏が与えた1つ1つの課題を飯塚投手は乗り越えて成長していった

センバツから帰って、2人が見据えたのは最後の『夏』。そこへのステップが始まった。本間氏が重点を置いて指導をしたのは「インコース(内角)を突ける制球」だった。

飯塚「インコースを突き始めたのは(5月下旬の福岡での)招待野球、西日本短大附との試合(1対0で勝利)だった」
本間「僕が言ったのは1人の打者に3球連続でインコース放れば、ネクストで見ている次の打者に投げる必要はない。2人続けて投げなくてもいい、と言った。打者も1人置きに投げればよくて、全員にインコースを投げる必要はないとも言った」
飯塚「1度に沢山のことを言われるのではなく、少しずつ段階を踏んでやれていたのでやりやすかった。試合をこなすたびに自分がワンランク、レベルアップしている実感があった」
本間「1個ずつ吸収していったのが凄い。ちゃんと自分のものにして、次の段階に入っていった」

夏の新潟大会、日本文理は順調に勝ち進んだ。決勝はノーシードから勝ち上がり勢いに乗る関根学園が相手だった。先発した飯塚は初回と2回に1点ずつを失い、序盤からリードを許す苦しい展開だった。9回裏、小太刀緒飛(こだち・おとわ)の逆転サヨナラ3点本塁打で勝利し、3季連続の甲子園出場を勝ち取った。

飯塚「ずっと立ち上がりが悪くて、だんだん初回に先制されても、正直焦らなくなっていた。9イニングで試合をやることを考えられるようになっていた」
本間「点を取られたら取られたでいいから1点で終わればいいと言っていた。それが2点や3点になるとダメ。1イニング1点だったらいいよとずっと言っていた」
飯塚「それまでは自分が0点で完投することしか考えてなかった。それで失点した時に焦って大量失点したことも多かった。失点してもいいやと思ったことで焦らなくなった」
本間「春から夏にかけて技術的に教えたのはストライクを取る小さいカットボール(小さく曲がるスライダー)だけ。それを我慢して県大会では放らなかった。甲子園で解禁できたのも大きかった」

新潟大会決勝の飯塚投手 初回と2回に失点したが「焦りはなかった」という

夏の甲子園の全5試合を飯塚は1人で投げ抜いた。特に2回戦の東邦(愛知)戦は「ベストピッチ」と2人が口を揃える内容だった。半年間にわたる二人三脚の“集大成”、2人が目指した『投手・飯塚』の完成形が、その試合にあった。

本間「1回戦の大分戦の後が(中6日)長かったので、絶対にバランスがおかしくなっているだろうなと思っていた。(無料通話アプリの)LINEで毎日キャッチボールの内容も聞いて、(調整について)話していた。東邦の1回戦の試合をテレビで見たら、外角ばかりだと踏み込まれて打たれると思った。(5月から練習をしてきた)インコース(内角)を多めに放れと伝えた。とことんインコースを放れと。そうするとだんだん東邦の打者は開き始めてくるから、後半はバットに当たらなくなると」
飯塚「東邦戦は甲子園の中で一番よかった。インコースとカット気味のスライダーを外にも内にも放れた。右打者も左打者も膝元にカットボールでストライクを取ることができた。それが自分の中で大きかった」
本間「東邦戦を見て、高校生としてはここまでなってくれれば十分と思った。力まず投げて142~3キロは出ていた。決めようと思って三振を取っていたし、投手としては十分。あとはプロに行けるかどうかは持っているか、持っていないか。ここまでの姿をプロ側がきちんと見ていてくれれば取ってくれるかなと。うちの監督(日本文理・大井道夫監督)は中京大中京にも負けているし、愛知には勝ちたいんだろうなと思っていたので、東邦に勝って恩返しができた」
飯塚「高校に入って、最初は投手でと思っていたが、(1、2年生の時は)本当に投手でやっていけるのかと不安になってきて・・・でもそこから最後は自信をもってマウンドに上がることができるようになって、甲子園でベスト4という結果で終わることができて、高校生活の集大成を見せることができた。いろんな波はあったけど段階を踏んでやって来ることができて、自分の芯が強くなれたと思う」
本間「改めて、学生野球資格を回復してよかった。制度ができるのがあと半年遅かったら飯塚を直すことができなかった」
飯塚「自分は“持っていた”(笑)。本当に半年違ったら違う結果だった」

「資格回復をしてよかった」と話す本間氏 「持っていた」と笑う飯塚投手

昨年10月23日のドラフト会議でDeNAから7位指名を受け、入団が決まった飯塚。1月9日からは横須賀市で新人合同自主トレが始まり、プロとしての第一歩を踏み出す。プロの先輩でもある本間氏が後輩にアドバイスを送った。

本間「1月の時点ではあまり周りを見ないこと。周りを見るととんでもない力の選手がたくさんいますから。2月のキャンプが終わって、3月から教育リーグが始まるので、そこで自分の立ち位置を見ること。そこから一気に一軍を目指そうとすると故障のきっかけになるので。ただ飯塚は肩や肘に関しては丈夫。2月からやってきて、1度も痛いと言ったことがない。持って生まれたもんだと思う」
飯塚「まずは体づくりだと思う。高校生の体からプロ選手の体にしっかり作って、しっかりイニングを投げられるような投手になりたい。最初はしっかりと基礎体力を作って、いろんな人が投げているピッチングを見て、スピード感なりを自分の中で学んで動いて・・・何年後というのは考えずいつでも自分が一軍に上がれるような状態を作っていきたい。一日も早く一軍に上がれるような・・・急ぐわけではないが、しっかりとその波に乗れるように頑張りたい」
本間「十分だと思う。体を作るのが一番最初の1年目の仕事。毎日野球をやることに飽きないこと。毎日淡々と同じことを繰り返すことが一番しんどい。一日一日、前の日に明日のテーマを決めて、それをピラミッドのように積み重ねること。いきなり開幕一軍というような大きいピラミットはいらないので、小さなピラミッド積み重ねていけば、いずれ一軍に上がることができる。それは去年2月からやってきたことと一緒。あとはオンとオフ。外に出かけない趣味を何か見つけること。野球を忘れられる趣味・・・本を読む、ゲームをする、でもいい。僕の場合は風呂に入るのが好きだったので、寮の時は大浴場に1時間ぐらい入っていた。あとは人間観察を好きになることかな。長年やってる人はオンとオフの切り替えがうまい」

今年の目標を「自覚」と記した飯塚投手 プロの世界でも一歩一歩の成長を期待したい

飯塚「長く球界でやれる選手になりたい。その年だけよかったではなく、次の年もその次の年も継続して、毎年安定した成績を出せるような投手になりたい。(進学・就職する高校時代のライバルやチームメイトも)プロを目指している。プロの舞台で対戦相手として戦えるなら自分が先にプロに行った意地を見せて絶対に負けない。成長した自分を見せられるようになりたい。DeNAはエコスタ(ハードオフ・エコスタジアム)に毎年一軍の試合が来ている球団。いずれ新潟県出身選手として出場できたらと思う。自分は先発完投型でいきたい。本間さんにはこれからも長い付き合いをお願いしたいです(笑)」

<取材後記>
夏の新潟大会を前にした去年6月、本間氏が打ち明けてくれたことがある。「体の“ロック”を1つ外せば飯塚は140キロ後半のボールが投げられるようになる。でもそのロックを外して、もし制球が乱れるようなことがあったらと考えると、外していいのかどうか悩んでいるんです」。結果、勝利を最優先した本間氏はそのロックを外さなかったが、まるでガラス細工を作るかのように、1つ1つのパーツを丁寧に磨くことで『投手・飯塚』を組み立てていった。飯塚も本間氏に全幅の信頼を置いた。飯塚の考えや意見を取り入れた上で、複数の選択肢を示しながら、解決策を探るという本間氏の指導姿勢に、飯塚が信頼を寄せた結果だった。人と人との出会いは大きい。元プロの学生野球資格回復の結果、1人の高校生の才能が大きく花開いたことは、プロとアマの間にいまだに大きな壁がある「野球」という競技の未来を考える上で非常に考えさせられるものである。本間氏が語っていたように資格回復が「あと半年遅かったら」・・・『投手・飯塚』の運命はどうなっていたかわからない。だからこそ、本間氏に限らず貴重な経験値を持つ元プロの言葉が、広く新潟の高校球児に届くようになれば、と改めて考えさせられる取材だった。

(取材・撮影・文/岡田浩人 取材協力/スポーツニッポン新潟支局)


【高校野球】日本文理・飯塚投手が帰国 「また日本代表に選ばれたい」

8月の全国高校野球選手権大会でベスト4に輝いた日本文理高校のエース・飯塚悟史投手が8日、U-18アジア野球選手権がおこなわれたタイから帰国。甲子園に出発した8月4日以来35日ぶりに新潟に戻り、9日に登校した。飯塚投手は初めて日本代表として戦った感想や注目の進路について取材に答えた。

笑顔で取材に答える飯塚悟史投手

QJAPANのユニフォームを着た感想は?
「正直、最初は興奮した。段々みんなと打ち解けていく中でJAPANというより、1つのチームという感じにまとまっていった。日本代表としての責任感も感じた。一番思ったのは海外のチームの動きがダラダラしているのを見て、日本の野球をしっかりやりたい、それを伝えるのがこういう大会だと思った。キビキビした日本の野球をチームとして伝えることができたのではないかと思っている」

Q先発した中国戦(1次リーグ第3戦・5回を投げパーフェクト)の手応えは?
「中国には直球が一番効果があると最初の方に気づくことができた。低めの変化球に手を出してこなかったので。相手に対応する投球ができたと思う」

Q日本代表として勉強になったことは?
「(日本代表選手の)1人ひとりが自分に大切なものを持っていた。自分に必要なもの、ここが売りというものをみんなが代表チームで出していた。そういうものを持っている選手が活躍できていると感じて、そこが上でやれるポイントなのかなと感じた。そういう面では自分ももっともっと自分のいいものを出していきたいと思った。そういうことを(下級生の)1、2年生にも教えていきたい」

Q将来的にはWBCなどで再び日本代表のユニフォームを着てみたい?
「このメンバーでまたやりたいと感じたし、また日本代表に選ばれてみたいと思った。それには自分が次のステップで活躍するのが一番。次は(プロの世界で)メンバーたちと対戦したいし、楽しみにしている」

Q今後の目標は?
「自分は常に『勝てる投手』でありたい。もちろん球速も上げていきたい、勝負できる球をもっと増やしたいという思いはあるが、一番は『勝てる投手』というものを常に貫いてやっていきたい」

Q進路について現時点で考えていることは?
「プロに行きたい、プロでやってみたい気持ちはあるが、監督、両親やいろんな人と話をしてから(進路を)決めたい。自分にとって一番ベストな選択をしたい。今週末に上越市の実家に帰るのでそこで両親と話をしたい」

(取材・撮影・文/岡田浩人)